週刊ポスト 2000年09月15日号 都市化の暴力をまぬがれた村落の”記憶” 『mandinka(マンディンカ)』

音楽がきこえる。からだの内部が愉快な気で沸きだち、手足が動き出すような。リズミックで、リリックで、プリミティヴでもある音楽。

マンディンカ族はアフリカ西海岸にあって、十三世紀まで独自の文化を有する大国を創建していた。西欧の侵攻によってセネガルやマリら六か国に分断されるが、なおひとつの伝統文化を共有する。

文字は持たなかった。物語り物語られ、歌い歌われる世界で生きていた。まぎれもなく耳の種族だった。

そのマンディンカの末裔が、数種類の太鼓と弦楽器で演奏する現在、いまのいまのシーンを、プレイヤーとともにサバンナの村やパオパブの森、海岸を移動しながら撮影した。都市のシーンは出てこない。

とうぜんだったろう。西欧近代は、耳よりも眼を偏重した。dnaの螺旋模式に象徴されるように、生命の謎までも視覚化せずにはいないという、眼の欲望と専制に盲従した時代だった。神が図像化されたのも、眼鏡が出現したルネサンス以来のことだ。それまで神は、もっぱら耳で感じとる存在だったのである。

マンディンカの文化は、そんな西欧文明と正面衝突する。侵攻した西欧の意思は、かれらの聴覚の共同体を破壊し、眼の共同体として組織しなおそうとした。つまり都市化しようとした。写真家は、その都市化の暴力から辛うじてまぬがれた村落に、耳の共同体としての記憶を見出そうとしたのである。

ここに、この写真集が、良質のジャズ・セッションさながらの興奮をもたらす理由もある。いうまでもなく、どんなに音楽シーンを撮っても、写真から音楽がきこえてくるわけではないのだった。

木陰で、女達三人が小杵をつ<カットがある。その労働する女達の豊かな腰が歌う仕事歌を共に歌う。写真集には、そんな命を共有するよろこびの感覚が、夕餉の食卓で、かの女たちが男に供する魚の尻尾みたいに、跳ねている。(記事より)

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